中村靖彦の今日思うこと

思いつくままの日記

60年ぶりの木曽駒ケ岳。

長野県の駒が根に行って来ました。JRの梓で岡谷まで、その後は在来線で駒が根まで、時間は結構かかりますね。日本は新幹線は次次に便利になりますが、在来線は便利になりません。地元の人たちはそんなに不便を感じている様子もなく、みな電車の中でもスマホを見ているだけでした。さて、木曽駒ケ岳にロープウエイが動いているというので乗って来ました。この山には思い出があります。60年前に、大学生時代に友達二人と登った山なんです。当時はなかったロープウエイて、今は2200メートルくらいまでのぼれます。サンダル履きの女性の方もおられました。

銀座での鬼ヤンマ

銀座を歩いていて鬼ヤンマを見つけました。大きな見事なトンボでした。しかしトンボは飛んでいたのではなく、歩道にペタッと止まっていたのです。このままではやがて踏み潰されてしまうと心配になりました。よほど拾いあげようかと思いましたが、近くに緑も水場もなく、そのままにしてしまいました帰りに同じ所を通りましたが、もう鬼ヤンマはいなくて、死骸もありませんでした。それにしても、銀座のど真ん中まで、あのトンボはどこからどうやつて到達したのでしょうかね。私が子どもの頃、住んでいた仙台市にはたくさんトンボがいました。なかでも鬼ヤンマは王様でした。今日銀座で見た鬼ヤンマは同じような見事さでした。

遅過ぎたけどしないよりはマシです。

来年のコメ作りから生産調整、いわゆる減反が廃止されます。スーパーに並ぶ多彩なコメの袋を見ていると、え!まだ生産調整なんてやつてたの?と思われる方もいるでしよう。そうなんです。やつていたのです。しかも半ば強制的な割り当て制度も残っていました。減反は1970年から始まりました。その頃からコメの消費が減り、生産過剰になる懸念が強くなって、何とかしなければとの危機感から取られた政策だったのです。農家は不満でした。作りたいコメを作らせないのですから皆怒りました。そこで政府は、これは緊急避難です。1~2年も我慢してもらえれば、また元のようにコメを作れるようになりますよ、などと説明していたのです。それが50年近くも続いたのですから驚きですよね。しかし、ついに来年からこの政策は廃止されます。現在の食料法は、コメの作る自由、売る自由を掲げています。漸く本来の法の精神が生きることになるのです。けれどもこの後の農村は大変です。減反政策がなくなり自由になるのですから、どんなコメでもいくらでも作って構いません。だけどただでさえ消費が落ちているのにいくらでもコメを作ったのでは売れ残り、農家は在庫を抱えて四苦八苦することになつてしまいます。いかにして売れるコメを見つけて生産するか、そしてどう販売の戦略を立てるか、農家の意識も変わらなければならないでしょう。私は農村の変貌に期待します。本来なら減反政策などとっくに廃止されてしかるべきでした。しかし長い間国の指導の下でコメを作っていた農家の、急激な変化を好まない心理が強く前時代の遺物のようにこの政策が残っていたのです。廃止は遅過ぎたけれど、しないよりはマシです。いまの私の心境です。

農業問題の情報が減りました。

新聞やテレビで農業問題についての情報が激減しました。業界紙ではなく一般紙のことです。以前このブログでも書いた、種子法の廃止とか新しいパン用の国産小麦が開発されたなどのニュースも一般紙では見ることが出来ません。メディアは自民の反応を大事にします。つまりニュースとして取り上げない、ということは、普通の市民の関心が薄いということを、そのメディアが判断しているということなのでしょう。しかしこうなると、市民と農業の距離がどんどん離れていってしまう。毎日食べているのに農産物のことを何も知らずにいるなんてことが起こり得るのです。私はそのことがとても心配です。けれどもまたこうも考えます。一般の市民は草の根で、農や食への関心を深めている、それを一般のメディアが捉えていないだけではないか。新聞やテレビの若い記者たちは最近の農業問題についての関心とか知識がまるでありませんからね。身の回りに食べ物がいくらでもある時代てすからね。

空白を取り戻すのに何年かかる?

6月14日付けの「日本農業新聞」にこんな記事が載っていました。f:id:terakoya05:20170614105606j:image新しいパン用の小麦が開発されたという記事です。東北と北陸向けで、現在寒い地域で多く栽培されている「ゆきちから」という品種に負けない「夏黄金」という品種だそうです。いま日本の小麦の自給率は10%程度でとても低い上に、美味しいパンを作るのに適した品種は少ないのが実情です。「夏黄金」は、育種でこの点を改良して、角型食パンを作るのに適した品種に育てたということです。このような研究成果は貴重です。ただ長いこと農業政策を見てきた私としては、つい少し以前を振り返りたくなってしまいます。日本は第二次大戦前までは小麦の生産が盛んでした。量だけでなく、質の上でも優れた小麦を生産していました。終戦となった直後、アメリカの農務官が日本にやつてきて、日本の小麦の品種「農林10号」を母国に持ち帰りました。倒れにくく収穫量も安定していたこの品種は、交配されて当時のアメリカの小麦を変えたと言われています。さらにこの品種は、後にノーベル賞を受けたボーローグ博士の目に留まり、インド、パキスタン緑の革命をもたらす小麦となるのです。しかし戦後、日本の農政はコメ中心となりました。主食のコメが不足していた状況ではやむを得ない選択だったかもしれませんけれどもこのような環境の中で、日本の小麦生産は衰退の一途を辿っていきました。そしていま、にほんの食生活が変わっていく中で、小麦への関心もまた高まっています。けれども一度衰えた技術を立て直すのは容易なことではありません。地味なようでも、基礎的な技術を維持していくことがどんなに大切か、私は折りにふれて思い起こしています。

メダカがやって来ました。

私が入居している老人ホームにメダカがやって来ました 。中庭に置かれた五つの水槽の中で、小さなメダカが泳いでいます。小さくてもそれぞれ種類が違います。f:id:terakoya05:20170609102808j:imageこの写真ではよく分かりませんね。表示を読んでみます。幹之メダカ、この種類はうろこが光っています。白メダカ、全体が白く黄色とか黒の色素が抜け落ちています。パンダメダカ、目玉が黒く白目の部分がありません。楊貴妃メダカ、何と高貴な名前が付けられたメダカです。そしてヒメダカは、江戸時代から庶民に飼育されていたという種類だとのことです。私が子どもの頃は、田んぼに水が入ってコメ作りが始まる頃にメダカも泳ぎ始めたような気がします。その後農薬が広く田んぼに撒かれるようになって、小さな生物は姿を消しました。ところがいま、野菜や果物などが次々に小型化して行く中で、ごく小さな魚であるメダカが注目されているのでしようか。